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滋賀県出身の社会人による備忘録。

リスペクト

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自分と向き合ってくれる人が傍に居てくれることが、どれだけ尊いことなんだろうか。

自分の場合、その存在がお祖父ちゃんだったり、山田さんだったりした。

対等な対話をじっくり行うことで、初めて自分との対話も生まれてた。

お祖父ちゃんが小さい頃の僕にじっくりと時間を割いてくれていたことを思い出して、今では本当に有難いと感謝している。

でも二人は決して、僕に何か知見を教えたりすることは無かった。

ただ単に、僕が頭で内省した言葉を待っていただけだった。

でもその瞬間は本当に貴重な時間であった。

そして、その時間が自分との対話を生み『何故なんだろう?』と問うことを頑張れた。

その時の、二人のまなざしを今でも覚えている。

怖かったけど、なにか優しい顔をしていたと思う。

答えは自分の中にあった。

二人はそれを教えてくれてた。

自分で考えて、気づくこと。

それがまるごとの自分を生きることに繋がる一歩だと思う。

僕は今の効率を求めるすぎる社会に疑問を感じる。

もっとじっくり在りたいし、その中で育まれるものを大切にできる世界を皆んなと創りたいんだ。

 

草野吉耶

中国は重慶大学に行く。

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 9/7~9/21は中国国立大学インターンシッププログラムで重慶大学に行ってきました。中国のことを特に詳しい訳ではありませんでしたが、興味はありました。しかしメディアにより少しネガティブな印象が先行していることや何か遠い存在に自分が感じていることに疑問を抱き、この度行ってまいりました。
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 重慶に着いてから、早速トラブルに見舞われました。それは持参したポケットwi-fiが使えなかったのです。かなり焦りましたが周囲の方に助けて頂き、大学へ向かうことができました。
 中国ではLINEやYoutubefacebookinstagramなどアクセスを規制されているアプリもあり(VPN接続をすれば使用可能)2週間の間、日本の情報には一切触れることができませんでした。今回の旅ではある意味それがポジティブに働き、中国の生活に集中できました。この時代、やはりスマートフォンが使えないことは不便でした。
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 話はさておき、インターンシップでは大学生や院生、教授と幅広い年代の方と交流し、主に2つのことを経験しました。
 1つ目は、日本語教育に関する授業をしたことです。はじめて授業というものを持たせて頂きました。下の写真に写る青いポロシャツを着ている方は日本語の先生です。先生は重慶で生活する日本人の方です。先生からは教師目線での授業の創り方、話題の拾い方などを教えて頂きました。授業のフィードバックとして、扱う内容を如何に学生のレベルまでに因数分解し、わかりやすく伝えるかということを指摘されました。これは日本に帰っても転用できることですね。
   9月は中国にとって新学期です。先生は導入部分である第1回の授業で生徒に向け「何故、重慶大学で日本語を学ぶか」を問うていました。私にとっては非常に印象的なやりとりでした。
 先生の授業も拝見させて頂く時間もありました。授業では重慶大学の先生と生徒の距離感が近く、両者の楽しそうな、且つ真剣な雰囲気はまた自分が日本では見たことのないものでした。
 
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   2つ目は、学生時代や教育、文化、未来、歴史そして政治をテーマに対話をしたことです。それぞれのテーマに関する意見を共有しました。
   私達日本人学生と中国で生活する学生の大きく異なる点は中学高校生活です。日本には部活動の文化がありますが、中国では部活動というものはなく、多くの学生が勉強に努めるそうです。朝の8時半から22時まで勉強という生活を何年も送っていた、と聞きました。日本でも受験戦争という言葉は聞きますが、圧倒的に中国の現状の方が大変であることが伺えます。中国の人口は14億人と言われ、その分エリートと言われる大手就職や公務員の席は限られています。皆が必死に勉強しレベルの高い大学を目指し、また大学でも猛勉強している姿を見ました。
 このような過酷な受験戦争の実態を重慶大学の教授は危惧していました。幼少期からレベルの高い大学への進学を念頭においた教育は座学を主とする勉強が多いのです。自然と触れ合うことや自分の興味関心に素直にいられる時間が発想や創造に繋がる。その時間を大切に大きく成長してほしいと、話されていました。
 
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 重慶での生活で得た気づきは、多くの学生がそれぞれの個性に価値があることを前提に対話をしており、意志ある発言を受容する文化があることです。だから皆、自分の意見を伝えますし、伝えることができるように見えました。授業内でも積極的に自分の意見を主張する姿勢をよく見ました。強く印象に残っています。一見、みんなが自己主張すると話が収束しないだろうと想像していましたが、そうではありませんでした。意見を出し合い、その上で最適案を選択する。現地の学生は日本語で「 個性は寛容を強調する。」と表現していました。その上でいいものはすぐに取り入れ実践する意思決定の速さが電子決済や車・自転車のシェアリングなどの世界の先端を走っているのだと感じました。
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インターンシップを通じて、改めて自分が都合よく物事を認識していることに気づきました。自分の眼鏡で判断しながらも常にそれを疑い、自分の眼鏡を捨てた視点を大切にすることを再確認しました。国というくくりや集合を個に当てはめて解釈することは、時として大きな誤解を生んでいるように思います。人それぞれであること。その視点を大切にします。
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また私が重慶に行った時期は重慶大学が今年90周年迎えることや、9月の中秋節、10月の建国記念日国慶節があることから、街はかなりの賑わいでした。この上の写真は磁器口(ツーチーコウ)という街並みを撮ったものです。人は多いです。様々なお店が並んでいます。食べ物も多様です。重慶にいって、兎や蛙、ザリガニ、蛇などなどユニークなものを食べました。抵抗はありましたが、美味しかったです笑
 
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重慶はとてつもなく大きい都市(北海道と同じ)で、車で数時間走っても周りは高層ビルでした。いつ郊外に行くのかドライバーの人に聞いてしまうほどでした。これが発展なのか、と肌で感じました。数年後に来ればさらに見違える都市になっていることを容易に想像させました。ただただパワフルな都市でした。
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今回の旅を振り返ると、最大の価値は現地の人との濃密な日本語での交流にあります。私のような第二言語が流暢ではない者であれば、何か表現しずらいことは質問できず表面的な付き合いになりがちですが、日本語であればかなり深い対話が現地の方とできました。時には言葉を慎重に選んだりと手に汗握る瞬間もありました。しかし最高に充実した時間を生みました。
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重慶で出会った皆さんは、日本から来た私にその土地ならではの習慣や生活、物事の捉え方、価値観を詳細に教えてくれました。皆さんのことを私に教えて下さり、本当にありがたかったです。皆さんからの優しさや温かさを受け、大切な友人ができ、アイデンティティが中国にも生まれました。皆さんと出会い交流したことで、新しい自分とも出会うことができました。
   今後も、この縁を大切にしていきたいと思います。そしてまた重慶に来ます。重慶で出会った皆さんと自分とでどのようなことができるかを考え、今度は自分が形にして還元していく。そのような営みを日中間の懸け橋としても、繰り返していきたいと思います。
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下記は私が参加した「中国国立大学インターンシッププログラム」のURLです。是非、多くの人にこのプログラムの存在を知って頂きたいですし、参加して中国へ行ってほしいという想いが本心です。いつでも自分経験した範囲で質問にはお答えしたいと思います。
 
【中国国立大学インターンシッププログラムHP】
 
 
 
 
 
ー草野吉耶
 
 

僕と政治。

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2019年7月に第25回参議院選挙が行われました。

 

今回は、その選挙期間で僕自身にあった変化を書いていきます。

 

というのも、この期間で政治に関して関心をもったからです。

 

僕は今まで何気なく選挙に行っていました。

 

選挙があれば、根拠もなく「いいな」という人に投票するだけでした。

 

そんな僕が初めて政治に関心をもち、そして意志をもって投票しました。

 

このタイミングで政治について考える機会に巡り合えたこと、このきっかけを書いておきたいと思います。

 

 

 

 

僕が政治に対して興味を持ち始めたきっかけは、幼馴染のSNS投稿でした。

 

なにやら幼馴染が政治に関連する発言・発信を頻繁にしている。

 

それが発端でした。

 

政治的な発言に皆さんはどのような印象を持たれているのでしょうか??

 

僕は心なしか、そのような発言に抵抗を感じていました。

 

それは何故かを考えました。

 

理由は、2つあります。

 

  1. 当事者意識に欠けるから
    政治と自分の関係性がいまいちはっきりとしない、何か他人事に感じてしまう自分がいるから発言には至らない。


  2. 第3者と距離を創るかもしれないから
    政治的を発言をすることで他者と知らずのうちに距離が生まれることを考えてしまうから。
 
理由は、主にこの2つだと考えました。
 
彼のSNSツイートの1つに、とても印象的な言葉がありました。
 
それを引用します。
 
【「アイツとは距離を置こう」だったり失うものないわけじゃないけど、それ以上にどうしても守らないといけないものがあるから。】
 
自分にはない勇気、そして強い想いをこのツイートから感じました。
 
幼馴染がこんな想いをもって実際に動いている。
 
気が付けば自分も色々調べていました。
 
彼のリツイートや政治に関する情報、歴史、映画、動画、街頭演説、見るようになりました。
 
新聞記者、本物のジャーナリストにめぐり会い、お話する機会も頂きました。
 
政治を通して、色んな価値観の人と出会えたり、考え方に触れることができました。
 
7月21日(日)の投票日までの2週間、そのような日々を過ごしました。
 
この2週間という時間を過ごして、新しい気づきがありました。
 
それは、政治・すべては他人事ではないということです。

政治とは、自分の意志をもって周囲に働きかけること、だと僕は考えました。
 
それは良い悪い関係なく、自分が起こす行動そのものが政治だと思います。
 
毎日自分が起こす行動ひとつひとつに注目しても、それは政治に関係していると僕は考えます。
 
ゴミのポイ捨て、近所付き合い、挨拶などなど。
 
一人一人の行動の積み重ねが気づけば大きな問題にもなってしまうし、人を助ける大きなファインプレーにも繋がっていると僕は思います。
 
しかしながら、自分自身もなんだけど「大きな問題と自分は関係ないこと」と分けて考えてしまっている部分があると感じます。
 
だから自分一人がやったところで仕方がない、と捉えてしまう時も正直多いです。
 
でも、それは違うと僕はこれから信じて生きたいです。
 
自分が行動に起こし、仲間と続けるから大きなことが起こせると考えます。
 
良いことも悪いことも小さい積み重ねでしかないことが本質だと思います。
 
まず自分がやり始めるから価値があるんだと思える、そんな世の中であってほしいです。
 
かといっても自分が全ての問題を解決することは難しい話ですし、その都度課題を自分ごととして認識することは精神的にもタフだと思います。
 
だから、最低限のモラルを持った上で、それぞれがそれぞれの意志の元、自分の役割を果たすことが大切だと考えます。
 
僕の今後のアクションプランとしては、継続的にこのようにブログなどで自分の意見を発信することです。
 
今回は幼馴染から影響を受ける側で、何も自分の意見を発信することはありませんでした。
 
しかし幼馴染の彼のように周囲に働きかけれる勇者が自分のそばにいてくれたから、気づけたこともたくさんあったことは事実です。
 
政治について考えるきっかけをもらえて、感謝しています。
 
だから今度は自分が自分の考えを発信する番です。
 
 
 
 
 
ー草野吉耶
 

海外の学生と「働く」を考える。

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日本の学生と社会人、そして日本語が話せる海外学生と「働く」について考える、そんな時間を過ごしました。

 

今回はそこで得た自分の気づきをまとめました。

 
・僕が参加したイベントの詳細↓

ptix.at

 

改めて、自分にとって「働く」とはどういうことかを自分に問いました。

 

自分にとって「働く」とは

【自分の価値観の元、人を笑顔にする・またはそれを守るために役割をもって行動すること】

だと考えています。

 

この考えに至った背景としては、一番身近にいる両親の姿や今までに出会ってきた社会人の方、そしてこのイベントに参加したからです。

 

【働くとは?】という題に対して、イベント内で皆が答えた定義はそれぞれで異なりました。

 

  • 働くとは、お金をもらうこと
  • 働くとは、任されること
  • 働くとは、夢を叶えるため
  • 働くとは、守るべきものを守るため
  • そもそも働いているという感覚はない

 

などなど。

 

全く同じ人はいませんでした。

 

40人いれば、40人違いました。

 

僕はこのイベントに参加して、今までにない新しい気づきを2つ得ました。

 
 
1.自分の置かれた環境や境遇を改めて認識できた
自分はたまたま日本の滋賀県という場所で草野家として生まれた、という事実。
海外の学生と対話することで改めて、自分を認識できました。
人によって「働く」に対する当たり前は異なっていました。
国が違えば、バックグランドも日本人とは大きく異なります。
そうなると当たり前はもっと違いました。
その当たり前に良い悪いなどの正解はないわけですが、他国の観点が自分の環境や境遇の良いところや悪いところを教えてくれました。
僕は改めて、自身を違う観点からとらえることで自分を認識しました。
 


2.対面し、まず知り繋がることの大切さ

海外学生との交流時、僕は何か彼ら(彼女ら)に対し偏見をもっている自分を感じました。

その偏見は勝手な相手国のイメージ像です。

出会った方をその国の一人として対話するのではなく、人として対話することが先にくると、僕は考えました。

そして後から、国としての違いを知っていきます。

順序が大事だと考えるようになりました。

目の前の人と、まず向き合い理解することから始めることが相手に対する本質的な敬意だと思います。

 


今までも海外に行ったことがあるものの、何故このような気づきを得れなかったのかを僕は考えました。それは海外の方と「働く」について対話した経験が無かったからです。どちらかというと観光や文化に触れることが多かったです。人生の半分以上の時間を注ぐ「働く」に関する対話だからこそ、自分の環境や境遇の違いに着目できたと思います。

 

今一度、皆さんも海外学生と「働く」についてお話してはいかがでしょうか??

 

 

草野吉耶

 

人を介して価値観を知る。

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人はたくさんいる。色んな人がいる。当たり前に色んなバックグランドの人がいる。その人には、その人がもつ唯一の価値観がそれぞれの中である。

 

自分には全く理解できないものもある。しかし実際にそれをもつ者と会い、触れあうことで少し知ることができる。それが大事だと思う。

 

なにかしら会わなければその価値観を知ることはできない。知っているからこそ、気づけることがあると確信がある。人と出会い会話することを大切に生きていきたい。

 

 

 

ー草野 吉耶

自己肯定感という言葉の一人歩き。

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以前、高垣忠一郎先生とお会いする機会がありました。
 
先生は「自己肯定感」という言葉の生みの親である方です。
 
「自己肯定感、上げていこう」
 
たまに耳にするフレーズです。
 
僕は自己肯定感の具体的な意味は知りません。
 
抽象的な理解です。
 
前向きな言葉なんだろうな、そんな風に聞いていました。
 
今回、自己肯定感の意味を先生の観点から教えて頂いたので、思考の整理のためにもまとめることにしました。
 
先生は自己肯定感について以下のように仰っていました。
 
自己肯定感とは高めるものではなく、ふくらませるものである。
 
『荒波の流れを乗り越えるために浮かばせる浮き袋』である。
 
「ふくらませる」という表現が自分の中では、新鮮でした。
 
人間はそれぞれ凸凹しています。
 
凸凹というのは良いところもあれば、当たり前に何か劣る点もあるということです。
 
一長一短、いいところもあれば情けないなと感じてしまう面もあります。
 
そんな時に、人は自分の負い目を感じる点には触れずに、隠そうとする。
 
自分自身にそのような態度をとるのではなく、等身大の自分をまるごと受け止めることが大切であると、先生は話されていました。
 
少なからず自分も好きではない自分がいて、そんな自分を表に出さずに抑え込んでいるかもしれないです。
 
でもなんでかって考えたら、やっぱりかっこよく在りたいとか、第三者の目線を気にしていたりする部分もあるのかなと思います。
 
 
○○らしく。
高校生らしく、兄らしく、女らしく。
 
多くの場合は、その「○○らしく」に対して自分のイメージや観念があり、それに合わせていると、先生。
 
例えば「男らしく」という言葉のイメージは、何か逞しい、又は強いイメージです。
 
自分は男なので無意識にそのイメージに従って生きている面もあるかもしれません。
 
ここでポイントなのが、何故そのイメージに沿って生きているかということです。
 
その理由は「らく」だからです。
 
皆と同じであれば、非難されることも少ないからです。
 
先生は「○○らしく」のような型に自分を当てはめてしまうことで、個性がなくなると仰っていました。
 
型に当てはめてしまうことで、自分の可能性を狭めてしまうことになるからです。
 
「自分らしく」のような積極的な表現もあるが、より良い表現で「自分を生きる」というのが自己肯定感の本質的な表現である、と教えて頂きました。
 
 
 まとめ・感想
自己肯定感の定義が自分の中であいまいであったので、先生と出会えてすごく光栄な思いです。
 
本当に大事な点は、いつだって主人公は自分であるという前提のもと、取捨選択を自分の意思で行い「自分を生きる」ということだと考えました。
 
かっこいい自分を評価するのではなくて、ダサい自分もまるごとを認め、身も心も大きくしていく、それが自己肯定感だと。
 
「自分は自分で大丈夫」と、思い一歩踏み出せる状態が自己肯定感であると僕は感じました。
 
「自分を生きる」とは、自分の意志で自分の道を決断することだと、私は思います。
 
まさに自由という言葉と、僕の認識としては似ています。
 
自由に生きる過程で、今の自分が感じることができる心の喜怒哀楽を、僕は大切にしたいです。
 
そして大きな自己肯定感の元、自分を生きていきたいです。
 
 
 
 
 
—草野吉耶
 
 

人生と時代の節目。

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2019年4月25日
22歳になりました。
 
ここ数ヶ月、就職活動ということで各地を転々としていますが、心身ともに元気で毎日過ごさせてもらっています!
 
22歳の誕生日は川崎の祖父母の家で迎え、東京で過ごしていました。
 
その日は偶然ですが丸一日、親友と共に過ごしました。彼にはLサイズの鹿角港タピオカを頂き、お腹がタピオカで腹一杯になりました。いつも通り、僕たちの大好きな銭湯にも行ってお互いの近況を話し、有意義な時間をおくりました。
 
僕の自慢を1つ言えるのならば、紛れも無く彼をはじめとする『仲間』に恵まれていることです。大好きな人と一緒にたわいもない会話をしたり、時には真面目な話をかわしたり、悩み事があれば相談したり、そんなかけがえのない時間、笑顔のある空間にいれることが僕は本当に幸せです。どんな時も彼らの存在が自分を後押ししてくれますし、支えてくれています。本当にありがとう。出会えたことがたまらなく嬉しいです。
 
また誕生日の日、父親と久しぶりに近くのバーに行きました。自分の将来のこと、そして父親の想いについて、赤裸々に話すことができました。会話の中で盛り上がったことは、父親は平成元年入社で僕は令和元年入社になるという話でした。偶然ですが、時代の変化を感じさせる話題でした。父親と最高の時間が過ごせて何より嬉しかったです。
 
改めて、今の自分がいるのは紛れも無く22年間無償の愛で支え続けてくれた両親、偉大な祖父、そして優しい祖母がいてくれたからこそです。心の底から感謝の気持ちでいっぱいです。22歳の誕生日は、草野家に生まれたことを誇りに思える、そんな1日でした。
 
僕は今、学生から社会人へと人生の節目を迎えています。同時に時代も「平成」から「令和」へと移り変わります。「平成」と共に育ち、新しい時代「令和」を迎えます。なんだか身の引き締まる想いです。社会人になるまでの大学4年間、色んなタイミングで日々自分自身を見つめてきました。『自分はどうありたくて、どうなりたいのか?』という答えの一切ない問に、正面から向き合ってきました。この時間は自分を大いに成長させてくれたし、それらを取り巻く数多くの経験が自分の財産です。苦しい時間もあったけれどその時間が、また自分自身を後押ししてくれています。新しい時代「令和」、残りの大学生活も一生懸命に目先のことに集中して取り組んでいきます。

最後に、僕と関わりを持ってくれる友人の皆。お世話になった尊敬する人生の先輩方。皆様のお陰で毎日が充実してます。本当にありがとうございます。22歳の今年も、そんな大切な人たちと共に、自分の心の赴くままに、なによりめいっぱい楽しんで生きていきます。
 
まだまだ未熟な吉耶ですが、引き続き宜しくお願いします。
 
 
 
 
 
 
ー草野吉耶