yoshiyanoblog

滋賀県出身の社会人による備忘録。

歴史から学ぶものづくり日本の伝統と文化

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 今回は、僕が大学内で受講している職業指導の授業で取り扱った資料を紹介したいと思います。それは、『工業教育資料:通巻376号(11月号)史から学ぶものづくり日本の伝統と文化』です。授業内で講演して頂いた櫻井和雄氏に、ブログ内で取り上げることを許可して頂いたので本資料を以下に記載させて頂きました。有難うございます。この場を借りて、お礼申し上げます。

 自分は一人の理工学部機械工学科所属生として、本記事に親近感がわきました。ものづくりという他国に引きを取らない圧倒的技術力が今までの日本を支えてきたことは揺るがない事実であると思います。日本が作り上げてきたものづくりの文化を詳細に描いたものが本資料です。
 特に『6.日本独立に心血を注いだ豊田佐吉・喜一郎親子』で書かれている内容はものづくりの業界関係なく様々な場所で生かされる考え方ではないかと個人的には感じました。その他にも、僕にとって印象的だった部分には赤色でマークしてあります。是非、興味ある方は目を通して頂ければ幸いです。

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工業教育資料:通巻376号(11月号)
歴史から学ぶものづくり日本の伝統と文化
(公社)全国工業高等学校長協会名誉会員
日本工業技術教育学会会員
日本工業教育経営研究会顧問
前神戸村野工業高等学校長櫻井和雄

 

 教育基本法第 2 条(教育の目標)5 項に「伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛すること」と記されている。伝統と文化を辞書で調べると,伝統とは「民族が長い歴史を通じて培い,伝えてきた信仰,風習,制度,思想,学問,芸術等,特にそれらの精神的あり方」とあり,文化は「自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果」とある。
 では,ものづくりの伝統と文化とは何であろうか。先人たちのあゆみをひもときながら考えてみたい。

 

▽目次▽

1.科学技術創造立国を担う志を持つ

 

2.世界で初めて工学部が我が国で生まれた―ヘンリー・ダイアーの功績

 

3.日本の底力は伝統技能を土台にしている

 

4.ペリーを驚かせた技術・技能

 

5.正確な暦を造る国家事業に身を捧げた人達

 

6.日本独立に心血を注いだ豊田佐吉・喜一郎親子

 

7.戦後に復興の為に心血を注いだ人々

 

8.日本人としての矜持を持つ工業人の育成を

 

9.まず,何の為に学ぶのかを問う指導が必要

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1.科学技術創造立国を担う志を持つ
 日本は,明治維新以降近代工業化を推進して経済を確立してきた。即ち,日本は天然資源がない為,原材料を輸入し,付加価値を付けた工業製品を輸出して外貨を手に入れ,エネルギーや食糧等を輸入して日本経済が成り立ってきた。この形は,脱工業化が語られる今も変わらない。今後も変わらないと信じている。

 私達は,科学技術創造立国を支える為に技能を持った技術者,技術を持った技能者,即ちP.F. ドラッカーも指摘しているテクノロジストの育成が重要であると提言してきた。と同時に,私達は,日本の国をものづくりで支えようとする志を持ったテクノロジストを育てるべきであることを生徒達に伝えねばならないのだと思う。
 しかし,現実は,国家の要請,企業からの要請を問うこともなく,生徒の希望の減少のみを口実に各都道府県では,工業高校から総合学科高校への改編が進められてきた。少子化を理由に普通科との合併が進められた。工業科を設置する私立高校では工業科の廃科が相次いでいる。


2.世界で初めて工学部が我が国で生まれた―ヘンリー・ダイアーの功績
 明治維新期の輸出品は,生糸が最大で,茶,水産物,水油,木蝋等の農村工業品であり,輸入品は機械工業品であった。植民地化を防ぐためには,富国強兵が不可欠であった。明治維新前から幕府は 6 次に亘り欧米への使節団と留学生を送り,薩摩,長州,土佐,安中の各藩も留学生を送った。明治政府も使節団と留学生を送り,近代化に努めた。
 当時,近代工業製品は全て輸入,技術者さえも欧米から招聘しなければならなかった。ヨーロッパとの技術格差を実感した明治政府指導者が,最初に取り組んだのは鉄道と電信であった。新橋—横浜間の鉄道敷設計画を策定した鉄道技術者エドモンド・モレル(英)による工業化推進の役所と技術者養成学校の設置が必要であるとの提案により明治 3(1870)年に工部省が設立され,伊藤博文が工部大輔,山尾庸三が工部権大丞に就任した。彼らは,文3(1863)年,イギリスに密航した長州藩士 5 人組の一員である。伊藤博文は,岩倉具視使節団の一員として渡英中に,密航時に世話になったマセソンに工学校創設への協力と教師斡旋を依頼した。結果,明治 6(1873)年にヘンリー・ダイアーを都検とする9名のイギリス人教師を招聘し工学寮(明治 10 年 1 月に工部大学校に改称,明治 18 年に東大工学部となる)を開校した。工部省が雇用した外国人は 624 人に上った。
 グラスゴー生まれのダイアーは,イギリスの産業革命を牽引したスコットランド技師達の奉ずる「エンジニア思想」,つまり「エンジニアは社会発展の原動力であり,旧来の専門職(profession)である牧師・医師・法律家に並び得る新しい専門職である」との思想を明治日本に導入した。それまで地球上に存在しなかった「工学部」という概念を極東の島国に於いて初めて具現化したのである。
 工部大学校は,最初の予科学(2 年)を学校内で修学,専門学(2 年)を学校内修学と実地修学とを交代で行い,最後の実地学(2 年)を専ら実地で修学させるカリキュラムを導入した。即ち基礎・教養教育,専門教育,実地教育を夫々 2 年とする年制とし,土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の 7 学科が設けられた。工部大学校は工部省所管で,学生達は工部省管轄の工場施設や公共
事業の現場に自由に出入りすることが出来,それが他の学校の学生には真似の出来ない利点であった。
 ダイアーは,工部大学校の成功の要因とし

 

  1. 教育事業の責任者が理想を抱き明確な計画(イギリスの教育思想と大陸の教育制度の結合)を示したこと。
  2. 既存の権益(個人的,宗教的)との衝突がなく,白紙の状態から出発したこと。
  3. 良き政策支援者山尾庸三と日本政府の好意ある支援があったこと。
  4. 世界の一流の教師が協力したこと。
  5. 学生の多くは士族の出身で,サムライ魂を持ち勤勉で知性的であったこと。
 
の 5 点を指摘している。
 ダイアーは,「エンジニアは,真の革命家である。エンジニアの創意で近代社会が作られてきた」と指摘し,有益な市民となって,同胞の物質的・精神的福祉を向上させることを求め,「諸君は自分自身の為に存在するのではなく,社会の為に存在することを忘れてはならない」と訴えた。
 ダイアーは,「工学は『もの』を対象にして,それを扱う学問である」とし,エンジニアリングを学問として確立することを目指した。また,理論より実践を重視した教育を目指し,学生に工場や土木現場で働くことを課した。また,全人的な教育を目指し,知識だけでなく,身体,精神の鍛錬を重んじた。当時,工部大学校には士族が多く学んだが,この教育により「サムライ」としての立場に囚われず,「エンジニア」としての精神を身に付けていったのである。
 ダイアーは 9 年間に亘り職務を果たし,帰国した。明治 37(1904)年に大著「大日本(DaiNippon The Britain of the East)」を上梓している。平成 11(1999)年には「技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像・大日本」として

訳本が発刊されている。


3.日本の底力は伝統技能を土台にしている
 国家安泰の為に 7 年の歳月を費やして鋳造された高さ 16 m,重量 250 トン蓮座 130 トンもある世界最大の東大寺の大仏や国家安泰の為,150 人の職人が 5 年 8 か月を費やし製作された百万塔陀羅尼は,世界に類を見ない。百万塔陀羅尼は,現存する製作年度の明らかな世界最古の印刷物であるお経とそのお経を納めるろくろ引きの塔が百万組製作されたものである。
 また,鉄砲が種子島に伝来した時は,僅か 1年で刀鍛冶の技を使って鉄砲を製作した。
 千数百年前から伊勢神宮は,20 年ごとに式年遷宮される。その際,建物だけでなく,装束神宝と呼ばれる 700 種類,1500 点ほどの装飾品も全て作り直される。それらは各分野で日本最高の腕を持つ職人達によって再現される。更に,現代,寺院や神社や城郭等の歴史的建造物の修復作業にも共通のものが窺える。彼等は先達の技を精確に再現すると共にそれを乗り越えようと努力してきた。すなわち,式年遷宮というシステムを通じて,各種の製造技術が脈々と受け継がれ,重層的に発展している所に,日本の技術の独自性がある。
 また,世界最古の企業・金剛組は西暦 578 年創業であり,未だに宮大工としての技を受け継いでいる。1000 年以上の長寿企業の 1 位から 6位が日本の企業が独占している。このように,世業で身に付いた技を誇りとして先人の技術等過去の蓄積の上に代々の革新・改良が積み重なっていくという重層的な発展パターンがある。


4.ペリーを驚かせた技術・技能
 そして現代の技術力の根底には,ペリー等を驚かせた江戸時代やそれ以前からの技術・技能の蓄積がある。
 「ペリー提督日本遠征日記」には,「機構製品及び一般実用製品に於いて,日本人は大した手技を示す。彼等が粗末な道具しか使ってなく,機械を使うことに疎いことを考慮すると,彼らの手作業の技能の熟達度は驚く程である。日本人の手職人は世界のどの国の手職人に劣らず熟達しており,国民の発明力が自由に発揮されるようになれば,最も進んだ工業国に日本が追い着く日はそう遠くないだろう。他国民が物質的なもので発展させてきたその成果を学ぼうとする意欲が旺盛であり,そして,学んだものを直ぐに自分なりに使いこなすから,国民が外国との交流を禁止する政府の排他的政策が緩められれば,日本は直ぐに最恵国と同じレベルに到達するだろう。文明化した国々がこれまでに積み上げてきたものを手に入れたならば,日本は将来きっと機構製品の覇権(はけん)争いで強力な競争国の一つとなるだろう」と驚異の目で書かれている。
 事実,人を喜ばせる為に製作した「からくり茶運び人形」で有名な田中久重が,維新の 13年前の安政 2(1855)年,国家公共の為に役立てようと,佐賀の城下町の一角にある佐賀藩精煉方で,蒸気船と蒸気機関車の模型を作り,実際に走らせた。
 久重は,今の技術を持ってしても再現が難しい万年自鳴鐘も製作した。それは,洋式の 2 時間時計,昼夜の長さを自動調整する和式時計,七曜表など 6 種の時計が連動して動くものである。
 久重は,新しい日本建設の為万般の機械考案の依頼に応じる目的で工場を建設した。その工場の前には「万般の機械考案の依頼に応ず」と
書かれた看板を掲げた。そこでは,電信機や生糸の試験機を発明し製品化している。この工場は現在の東芝の前身である。東芝は今も初代久重が開いた工場を東芝の原点とし,「人間に奉仕する技術者精神」を「東芝の初心」として経営の基盤にしている。


5.正確な暦を造る国家事業に身を捧げた人達
 鉄砲鍛冶の国友一貫斎は,家督を息子に譲った後に,独学でグレゴリー式反射望遠鏡の製作に取り組み,参考にした望遠鏡より 2 倍大きく見える極めて優れた性能を持つ国産のグレゴリー式反射望遠鏡を完成させた。そして天体観測も行っている。
 伊能忠敬は 49 歳から暦学を学び,更に天体観測を学んだ後,正しい暦を編纂するために第2 の人生を捧げて全国各地を測量して回り,日本地図を制作した。
 この様に,国家の繁栄の為,人の為に尽くそうとする志や精神力と伝統技術を土台とした革新が日本の底力である。


6.日本独立に心血を注いだ豊田佐吉・喜一郎親子
 手織り縞を織っていた村に生まれた 21 歳の豊田佐吉は,世の中の為,国の為に織機の改良発明の志を抱いた。周りから変わり者扱いを受けるほど発明に没頭し,10 年後発明した木製動力織機は,速度が独仏製の半分以下であったが,価格は極めて安く急速に普及した。
 明治 39(1906)年に豊田式織物会社を設立,今日のトヨタ生産方式に繋がる緯(たて)糸切断停止装置を発明するが,自動織機の完璧を求めた佐吉は,利益主義に走る重役会で辞職を強要された。佐吉は,9 か月間,米英の織機メーカーを見て回った。帰国後織布工場を立ち上げた。昭和 4(1929)年には,佐吉の持つ特許をイギリスのブラッド社に譲渡している。
 佐吉は,アメリカで日本人排斥の声がやかましく憤激に堪えぬ。日本人の知能が白人より劣ると見ているからである。日本人の白人に対する知能の挑戦と国富の培養が肝要である」と語っている。
 佐吉は,喜一郎に「立派な自動車を作らなければ,世界的に工業国と言って威張れない。わしは織機を発明し,お国の保護・特許制度で儲け,お国にも尽くした。その恩返しに,お前は自動車を造って国の為に尽くせ」と励ました。
 喜一郎は,「このままでは日本は永久にアメリカの経済的植民地になる。誰もやらないし,やれないから俺がやる。そんな俺は阿呆かも知れないが,その阿呆がいなければ,世の中には新しいものは生まれない。そこに人生の面白み,人生の生き甲斐がある。出来なくて倒れたら,自分の力が足りないのだから潔く腹を切る」と決意する。和 9(1934)年 1 月,豊田自動織機株主総会で自動車事業に取り組む為の増資と年内に試作 1 号を完成させると宣言した。約束の 1 年が過ぎてもエンジンは完成せず悪戦苦闘,翌年 4 月下旬「俺は段々おやじに似てくる」と考えていた頃,国産エンジンが完成した。
 昭和 10(1935)年,横浜で巨大な自動車工場の計画を持つフォードに対抗する政府は,鮎川義介が設立した日産自動車に期待した。鮎川は「国家・民族の為に,日本に重工業を始め,すべての産業を打ち立てる」と宣言し,アメリカのグラハム・ページ自動車会社の工場施設をそのまま買い取って,横浜の新子安海岸に大工場を建設しつつあった。「国家・民族の為に」という志こそ同じだが,喜一郎は「人のものをそのまま受け継いだものには,楽をしてそれだけの知識を得るだけに,更に進んで進歩させる
と云う力や迫力には欠ける。日本の真の工業の独立を図るには,この迫力を養わなければならぬ」と考えた。G 1 型トラックが完成した 11 月,営業責任者はセールスマンに言う。「うちの車は他の車よりいいなどとは,決して言うてはならんぞ。世界のどこに比べても,現在のうちの車は一番劣悪なんだ。ただ,国産品だから買ってくれ,使ってくれと頼むんだ。そうでなければ,自動車はいつまでもアメリカの独占物になる。日本の自動車工業は育たず,日本の民族工業全体が,二流三流のままで取り残される。皆さんが使ってさえくれれば,トヨタは必ず改善して,やがて世界一の車にしてみせると言うのだ」と。
 修理担当者たちは不眠不休で対応,喜一郎も殆んど工場に泊まり込み,「どんな些細な欠陥でも,本質に立ち返って見直せ」と技師達に指示した。1 年間で改良は 800 点を超え,顧客の信頼を次第に得ていった。そして思惑通り,その過程で自前の技術が蓄積されていった。
 敗戦の翌日,喜一郎は幹部全員を集めて,「日本の自動車産業は 3 年間でアメリカに追いつけなかったら,生き残っていけない。もし,GHQの許可がおりたら,トヨタはなんとしてでも 3年でアメリカに追いつかねばならぬ」と檄を飛ばした。
 トヨタ生産方式を考案した大野耐一氏は「私は左吉翁が一番重んじた日本人の知能をいかに生かすかという執念に圧倒される。また,日本人の創造性,日本のオリジナル技術を発見していかないと,一企業のことだけではない,日本はいつまでも欧米世界に追いつき,それに伍していけないという国家意識を,自分を戒める言葉として受け取っている」と語っている。


7.戦後に復興の為に心血を注いだ人々
 松下幸之助翁は,「私どもは“企業は企業自体のものではない。本来,全国民のものである。全国民の共有のものであるが,経営効率を上げるに相応しいから私企業として許され,便宜上法律の上で我々が企業経営の適格者として選ばれて経営をしている”という解釈に立脚しなければならない」と述べている。
 「海賊と呼ばれた男」出光佐三氏が人間の尊厳を第一とする互譲互助の経営方針で作った出光興産には,馘首がなく,定年制・出勤簿・労働組合がない。給料は生活の保証で労働の対価ではなく,社員が残業手当を受取らないと言う。終戦後,海外より復員してきた 1000 人の社員の馘首をしなかった。国民への良質で安価な石油供給を目指して,進駐軍をバックにした国際石油カルテルの圧迫と戦った。石油業復帰を許されず,農業,漁業やラジオの修理販売等を行った。政府から旧陸海軍のタンク底油集積作業を依頼された。これは,出光を破産させることが目的であったとの説もある。出光社員はふんどし一丁でタンク底に入り,軍の力でも集積不能と言われた泥廃油を貴重な物資と化して,国家の為に活用した。厳しい耐乏生活であったが、その奮闘ぶりは人々に大きな感動を与えたと言う。
 「技術の力で祖国復興に役立てよう」とソニーを創立し,トランジスタラジオを世界で初めて実用化した井深大氏は,「日本人は発明の価値を高く見過ぎている。確かにアメリカがトランジスタを発明したが,それを使いこなしたのは日本である。研究者が発明にかける努力のウェイトを 1 とすると,それが使えるか使えないかを見分けるのに 10 のウェイトがいる。さらに実用化するには 100 のウェイトがいる。この
ことを誰も知らない。何か一ついいものを見つけられたら,それで日本は繁栄すると思っている。これではいつまでたっても日本の技術は進歩しない」とテクノロジストの役割価値について指摘している。


8.日本人としての矜持を持つ工業人の育成を
 「技術者こそ真の革命家である」を信条とするヘンリー・ダイアーは,時間と距離の短縮という技術の革命力が,社会と経済と政治の大変革をもたらすことを実証するものとし,国際社会の中で何としても欧米列強と対等の立場を確保し,主権国家としての面目を貫こうとした日本人の愛国的な悲願こそ,維新後の近代化を推進した最大の原動力であったとしている。
 内田盛也氏は,明治維新の大事業,国家が進歩と変革を遂げる為に,国民の知性と徳性を基に,外国への隷属を排除せんとする個々人の強い矜持と名誉心に裏付けられたエンジニア達は鉄道の敷設,道路と河川の改修,港湾施設の整備,橋梁の架設,電信電話網の普及等を実現し,封建性のしがらみを打破し,世界の列強と対等に肩を並べる国民国家建設への土台を作ったと評価し,明治維新の大事業を成し遂げた技術者達を「サムライエンジニア」と名付けている。
 トヨタの TQM 推進部課長の肌附保明氏は,「戦後の他に類を見ない飛躍を遂げてきた技術・技能者達の『こだわりを持って高い技術と品質でものづくりに挑戦する精神,成功するまで石にかじりついても自分達でやり抜いてきた精神』,この良き日本の風土の基礎となっているものは,高潔な人格を尊ぶ道徳性,即ち武士道の精神である。」と語っている。


9.まず,何の為に学ぶのかを問う指導が必要
 ものづくり白書,中小企業白書,科学技術白書,産業教育審議会答申など数多く出されてきたなかで,国家の将来像や課題,国民は何をなすべきかを問うている。私達は,そのことを小中高の学校教育の中で児童生徒に伝えていくことが大切だと思う。
 現在改訂が進められている学習指導要領では,教育によって「何が出来るようになるか」,「何を学ぶか」「どのように学ぶか」について声高に語られている。しかしながら,「何のために学ぶのか」が表面的に語られていない。当然のこととして語られていないのかもしれない。
 これからは「脱工業化社会」であると言われているが,日本人が得意とするものは,「ものづくり」である。トヨタの副社長河合満氏は,「工場を進化させるには機械と人間の両方のレベルアップが欠かせない。自動化されたラインよりも更に高いレベルの人材を育てないとものづくりは進歩しない。だから人間の技能レベルもどんどん伸ばさなければいけない。ものづくりでは原理原則や過去からの過程を知ることが大事だ」と述べている。
 矜持を持った先達の生き様こそ日本の伝統と文化の神髄である。従って工業教育の土台にはものづくり日本の伝統と文化の伝達と確固たる人間教育がなければならない。このことが「ものづくりは人づくり」の意味するところである。


(参考文献)
ヘンリー・ダイアー『技術立国日本の恩人が描いた明治日本の実像・大日本・東洋のイギリス』平野勇夫訳,実業之日本社,1999 年


・内田盛也『知的資本をどう活かすか』日刊工業新聞社,2001 年


・平野雅臣『国際派日本人育成講座』人物探報,国柄探報,http://blog.jog-net.jp/


・上田弘之『日本工業の黎明—遣隋使から工部大学校まで—』国際電信電話㈱出版,1981 年


・鈴木一義『日本モノづくり文化論』2008 年 5月~ 7 月東京新聞連載著述「モノづくりモノがたり」


・鈴木一義『江戸の科学技術は世界水準!ものづくり日本の原点を見直そう』フロントランナー vol. 29


出光佐三マルクスが日本に生まれていたら』出光興産,1966 年


出光佐三『働く人の資本主義』春秋社,1969年


出光佐三『日本人にかえれ』ダイヤモンド社,1971 年


松下幸之助松下幸之助発言集第四巻企業は公共のもの』PHP 文庫,1996 年


・P.F. ドラッカー『テクノロジストの条件ものづくりが文明をつくる』上田淳生編訳,ダイヤモンド社,1971 年


・北政巳『ヘンリー・ダイアーと日本—彼の日本観を中心として』創価大学,1980 年


・君川治『技術者教育の父 ヘンリ-・ダイアー』On Line Journal「 ラ イ フ ビ ジ ョ ン 」,2011 年